「大真田構想」の提案

胃がん退職者

2007年11月22日 12:04



真田氏の家紋、六文銭


今年はNHK大河ドラマ風林火山のお蔭で、長野県内の特に関係の深い史跡などは大変にぎわったようです。で来年はどうかというと、オリンピック同様、例によってその反動から長野県内を訪れる県外観光客の、急激な落ち込みが予想されます。善光寺御開帳は平成21年4月、諏訪御柱祭りは平成22年とまだ少し日が空きます。


そこでと言うわけでもないのですが、丁度その落ち込み対策と言うことも兼ねて、かねがね私が思っていたことを提案させていただきます。それは、長野県内で真田氏と縁の深い上田市、旧真田町(現上田市)、旧松代町(現長野市)が連携した「大真田構想」です。現在はそれぞれ「真田祭り」を単独開催していますが、それぞれ単独でも良いと思うのですが、その間にはほとんど連携が感じられません。行政の区割りをまたぐというのがその大きな要因でしょうが、ひょっとしたら豊臣方の真田と徳川方の真田と言うことが一線を画しているのでしょうか。もしそうだとしたらそれは、今となってはもう意味のないことです。


むしろ私が思うに豊臣と徳川に別れたのは、戦国時代を巧みに生き抜いた戦略家・バルカン武将真田昌幸が、周到に練って編み出した真田を残す為の秘策と理解していますので、真田氏誕生の地真田、二度までも徳川の大軍を撃退した上田の地、徳川の時代を生き抜いた松代の地をトータルに理解することが必要だと思います。何故なら明治維新の際、天下分け目の重大事に当たって全国の諸藩は倒幕か佐幕かで大変な混乱に陥りました。その時松代藩はいち早く信濃を倒幕側にまとめる、指導的役割を果たしたと聞いています。それは松代藩が佐久間象山など外国などの諸事情に通じていた、優秀な人材を擁していたと言うことが大きいのでしょうが、それ以外にもご先祖様がまったく同様の天下分け目の関ヶ原の時にどの様な行動を取ったか、と言うことも大きく左右しただろうと言うことも想像に難くないのです。何故なら松代藩以外にも関ヶ原の時に藩祖がどの様な行動を取ったかで明治維新の行動が決まったと思われる藩がかなり多いのです。長くなるのでいちいち列挙しませんが、明治維新は、言わば関ヶ原の趣意返しと言っていいほどの様相を呈していると私は思います。


松代藩の中に豊臣方であった真田昌幸・幸村の精神が脈々と流れていたからこそ、松代藩は率先して倒幕側に与したといって良い状況を考えれば、もっと上田市、旧真田町(現上田市)、旧松代町(現長野市)は真田氏繋がりで、連携を取って良いのではないでしょうか。具体的には協同の観光キャンペーンをやるとか、周遊コースを設定したり、スタンプラリーなども面白いのでは。何せ以前は地蔵峠を越えれば、また今は高速でほんの三区間、新幹線にいたってはほんの十数分だけの距離なのですから。


実はこの構想、松代と上田の関係者のまだごく一部の方ですがお話をして有ります。結構関心は持っていただけたように思います。場合によっては、これがうまくすすめばさらに拡げて、その昔一時期真田氏が統治していた群馬県の沼田市との連携も、面白いのではないでしょうか、と最後に申し上げておきます。誠に僭越ながら。

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