冷蔵庫の故障で感じた、時代が求める「修理」のある暮らし

胃がん退職者

2008年04月13日 20:16







最初に、先日このブログを見てメールを頂いた方に連絡とお詫びいたします。
読者登録もしていただいたそうでありがとうございます。お礼を返信しようと思っていたのですが、誤って頂いたメールを削除してしまい、返信できなくなってしまいました。誠にすみません。お手数ですが、もう一度送って頂けませんでしょうか。よろしくお願いいたします。



さて本題に入りますが、先日我が家のサブの小型冷蔵庫が故障してしまいました。恐らく中枢のモーターかコンプレッサーが壊れてしまったと思われます。新品は安いものだと3万円位から有るようですが、それでもまだ修理した方が安いかなあと思ったのと(金額はまだ分かりません)、廃品で出してしまうとただの大きな箱で、処分にコストや処分場のスペースを潰すと思い、悩んだ末修理に出すことにしました。そしてハタと気が付きました。昭和30年生まれである私の子どもの頃は、品物が今ほど豊富で安くなく、何でも修理するのが当たり前だったことに。また各種の修理屋さんがいたんですね。電気屋さんは電気製品の修理が出来て当たり前、時計屋さんは修理や調整の上手なお店が繁盛していたし、傘の修理や、今ではほとんど聞かない鍋やヤカンの穴あきを直してくれる鋳掛けや(いかけや)さんとか色々な修理の職人さんが身近にいました。


その後高度経済成長と共に使い捨ての時代が来て、修理屋さんもそれに伴って消えていってしまいました。


でもこれからは今のような何でも使い捨ての時代が、いつまでも続かないかもしれません。なぜなら世界的な資源の枯渇と、日本の国力(経済力)が相対的に低下して、誠に残念なのかもしれませんが、今ほどには安価で大量な物資や製品を輸入できなくなる恐れが多分にあると私は思うからです。


一部の裕福な層と最貧困層の間に、高度経済成長を牽引した貪欲な物欲エネルギーを内在させた大量の中産階層の代わりに出現すると思われる、多数の「中の下か下の上」程度の新中産階層に取っては、使い捨て文化は通用しないでしょう。


「時代は『修理』のある暮らしを求めている」と言えるのではないでしょうか。


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